【書評】企業研究者の心得

書評

書 名:企業研究者の心得
著者名:中田俊彦
発行年:2022年1月
出版社:総合科学出版
ISBN :ISBN978-4-88181-884-8
出版社へのリンク:http://www.sogokagaku-pub.com/published/884.htm

本書は、日立製作所において長きに渡り光応用計測の分野で最先端の研究開発を牽引され、その業績により米国R&D 100 Awardsを3度受賞された中田俊彦博士が、同社を退職された後に上梓されたものである。中田氏は近接場光学の国家プロジェクトにも主要メンバーとして参画され、日本光学会光設計優秀賞の受賞を始め、会誌「光学」の編集委員としても活躍された。

タイトル「企業研究者の心得」とサブタイトル「理系学生から現役研究者のための人生指南書」に表現されている通り、本書は、企業において研究開発に関わるというライフスタイルや企業研究者の人生観を、同氏の実経験を交えて論じている。いわゆる学者の伝記本のようなものは、エッセーなども含め世に溢れているが、企業研究者という視点から、そこに関わる人々の日常や価値観及びそれを取り巻く環境に関し、ここまで丁寧に論じたものは、評者の知る限り過去に存在しない。もちろん、今日では、多国籍企業やスタートアップ、ファブレスなど民間企業の形態も多様化し、中田氏が経験した企業直轄の中央研究所的な態様は変貌を遂げている。働き方の多様化も最近では新たな段階に入りつつある。しかし、それらを差し引いたとしても、本書には手に取って読むべき価値がある。民間企業における先端研究者のダイナミクスが、社会や様々なステークホルダーとの緊張関係の中で展開されていく様子が丁寧に描写され、さらに、学術との繋がりや博士号の取得など、より広い視点に立ち様々な角度から企業研究者にスポットライトを当てている。

第1章「企業研究者としての第一歩」、第2章「研究着手から実用化まで」、第3章「研究の進め方と研究成果及びその評価」では、とりわけ研究のプロセスやその具体的な進め方という観点で、企業に限らず、アカデミアを含め、研究に関わる人材全般に対して示唆的な内容が豊富に盛り込まれている。

第4章「特許取得から論文投稿、学位取得まで」、第5章「研究能力について」、第6章「組織の中でいかに生きるか」において、それぞれの章タイトルが意味するところは、通常、大学生や大学院生などの若手世代にとって、非常に見えにくいのではないだろうか。企業研究者のキャリアの全体像を浮かび上がらせる貴重な内容となっている。

評者は、中田氏が近接場光学の国家プロジェクトに参画されたときからご縁があり、また、「光学」編集委員としても一緒に仕事をさせていただいた。当時から、中田氏は、単なる企業研究者という枠には収まらないような豊かな発想に溢れている方とお見受けし、高邁な哲学をお持ちなのではと肌で感じていた。中田氏との議論は、常にエキサイティングで新たな発見があり、毎回の会話はワクワクする時間であった。評者は、その根底にあった隠されたマインドが本書において実に著者から開陳されたように拝読した。

それは、「パブリックなものへの貢献」ということの普遍的な価値だ。中田氏は、日立製作所を退職後、プライベートの時間が、それまでになかったレベルで充実することに大きな喜びを感じる一方、研究開発の現場を引退したこと以上に、なにか重要なことの不全に悩まされたと本書の中で吐露されている。喪失してしまったものがあると。その喪失とはなにか。それは、社会への貢献という活動であり、広い社会との関わりであり、足跡を残していくことである。それが、本書を世に出す契機になったということは、一個人の経験を超え、現代の日本において非常に重大なことを示唆しているように思う。 人は、結局、パブリックなものに貢献にしたいという根源的ななにかを持っているのではないか。評者は、その魅力の凄まじさを本書に見た。そんなにも大きなことなのかと。会誌「光学」の編集委員会や付帯して開催される意見交換会でのインタラクションは、単に具体的な学術や技術を論じるだけではなく、皆が各々の社会受容性や価値基準を推し量り、認識する貴重な場であった。また、議論の場そのものが、中田氏にとって学術的・技術的生産の場であると同時に、人生における豊かな時間の象徴であったと述べられている。

さて、振り返って、今、我が国では、パブリックな学術研究のフロンティアという指向性をもった若手の人材は、意外なほどに多くない。パブリックなものへの貢献の価値は巨大という、評者が理解した本書の裏のメッセージとは対照的である。この状況の打開には、いかほどの報酬が得られるのかという経済的展望だけでなく、喜びとは何か、幸せとは何かという新たな次元での展望が必要となるように思われる。実際、本書の第7章は、「研究人生を振り返って」と題し、一企業の研究者という立場を超えた視点で、これらの価値観の詳細が研究人生における重要な側面として書き下されている。この観点からは、アカデミック界には、若手世代に対してパブリックな学術研究への貢献の魅力を積極的に発信する活動が求められよう。本書のメッセージは、世代やセクターを問わず、広く社会に貢献できるような場やコミュニティーの形成-昨今叫ばれている多様性と包摂(Diversity & Inclusion)を含め-の重要な一端を滲ませているようにも感じられる。 このように、本書は研究者の心得をわかりやすく解説したのみならず、研究や社会、人生に関する含蓄に満ちており、広い世代の現役研究者にとって参考になる好著である。

成瀬 誠(東京大学 大学院情報理工学系研究科 システム情報学専攻)